視覚情報の感覚過敏について考えた。
2017.06.02 Friday 11:49
ツイッターで紹介されていた記事を考える。
【「発達障害の当事者と打ち合わせをする」というので取材させてもらったら、むっちゃ勉強になった話】
上記ページより引用
*********************
発見2:感覚過敏で発達障害の当事者は「情報おおすぎ(Too Much Information)」状態になる
僕を含む「健常者」は、思ったより適当に世界をみているらしい。
集中してみようとしている対象以外のものはみえないし、
対象でさえも大つかみにしかみていない。
綾屋さんは渋谷を歩くと、
「看板のネオン、道路の角度、歩いている女子高生のヘアゴムの色、飲食店のメニュー、
すべてが網膜に焼き付くように目に入ってくる」
と話してくれた。
感覚が過敏になるということは、
周囲から入ってくる情報がとてつもない量になるということだ。
だから一部の発達障害の当事者は、
その情報の波にどう対処していいかわからなくなったり、激しく疲労したりする。
(引用ここまで)
*********************
これ、凄くよく分かる!
同ページで紹介されていた動画については、私は全く当てはまらなかったのだけど、
とにかく、視覚情報を拾いすぎて疲れるという状態は、正に私!
実は、旦那と結婚して3年くらいまでは、これが普通だと思っていた。
ところが、ある日の旦那との会話でおかしいかもしれないと思い始めることに。
旦那:「◯◯って、何処かで売っているかな?」
私:「百均で売ってたよ。あと、スーパー△△にも売ってた。」
旦那:「よく覚えているよね…。」
私:「買い物に行ったら、売ってるものみんな見ちゃわない?」
旦那:「いや全く。目的の物以外見ないし、見ても覚えてない。」
私:「…?(旦那、記憶力弱いのかしら?)」
また、別の日の会話で、
私:「スーパーに行くと、情報で酔う…。頭が疲れるー!」
旦那:「そんなに見なきゃいいのに。」
私:「目的の物の棚をパット見で全部見ちゃうんだよー!普通見るでしょ?見ない?」
旦那:「目的の物以外見ない。」
私:「…?(旦那、世の中に興味が無いのかしら?)」
また、別の日の会話で、
私:「前に行ったあそこにまた行きたーい。」
旦那:「どこ?」
私:「名前忘れた。竹林があって、風がざぁって気持ちよくて、
お茶屋さんの近くにお手洗いがあって、お団子売ってたり、かき氷売ってたり…。」
旦那:「…?」
これは、記憶の中の一枚の写真を見て説明している状態。
言っても伝わらないだろうと思って、言わなかったけれど、
お茶屋の看板が紫色だったとか、
外に椅子が出ていて、ウチの子くらいの子供とおばあちゃんが座っていたとか、
自分たちの隣のベンチにおじいちゃんが座っていてという話は省いた。
ついでに言うと、自分達が座っていたベンチの材質も覚えている。
見たもの以外にも、
頭の中で、『なんで、これはこうなのかな?何をしているのかな?アレいいな。』
等と、何か引っかかった対象については大体覚えている。
ここ数年は、加齢のお陰か、記憶する量が減ってきていて、随分楽になってきたけど。
と、どうやら私は、視覚から色々と情報を受取り過ぎていて、
しかも無駄な記憶をどんどんインプットしているらしい。
そのくせ、数字の羅列とか、意味のない記号の並びは全く覚えられない。
※念のために言うと、瞬間記憶なんて便利な物は持っていない。
街を歩く人の装飾品、道に咲いている花、広告…。
特に、色のついた物は記憶に鮮明に残る。
一時、余りにも買い物疲れが酷いので、メガネを掛けるのをやめた事がある。
少しぼやける視界で買い物をしたら、凄く楽だった。
以後、情報が多すぎる場所ではメガネを掛けることをやめた。
ただ、慣れないスーパーだと、
目的の物が何処にあるのか見つけにくくて逆に疲れてしまうという結果だったけれど。
外出するならば、電車よりも車の方が楽だし、(電車は人が多いのでおのずと視覚情報も増えてしまう)
初めて行く場所は疲れるし、
友達といくショッピングモールも、毎回同じ場所じゃないと何も買わずに帰ってきてしまう!
そんな面倒くさい『情報おおすぎ状態』だけれど、
気に入った場所の情景を、その場の雰囲気や、風の感じも含めて覚えていられるのは、
凄く良いと思っている。
行きたくてももう行けない場所も、記憶の中だと匂いまで覚えているから、
もう行けいないからと寂しく感じる事もない。
ただ、生活に支障が出るくらいになってしまうと、本当に辛いだろうとは思う。
結婚相手にすらなかなか理解してもらえなかった部分なので、
赤の他人となると本当に理解に苦しむ部分なのかもしれない。
発達障害の方々は、そういった見えない部分で苦しんでいるのだろう。
いい部分を伸ばして、辛い部分を何かしらの対処方で回避できる術をどんどん身につけて行って、
幸せな日常を送って欲しいと心から願う。
【「発達障害の当事者と打ち合わせをする」というので取材させてもらったら、むっちゃ勉強になった話】
上記ページより引用
*********************
発見2:感覚過敏で発達障害の当事者は「情報おおすぎ(Too Much Information)」状態になる
僕を含む「健常者」は、思ったより適当に世界をみているらしい。
集中してみようとしている対象以外のものはみえないし、
対象でさえも大つかみにしかみていない。
綾屋さんは渋谷を歩くと、
「看板のネオン、道路の角度、歩いている女子高生のヘアゴムの色、飲食店のメニュー、
すべてが網膜に焼き付くように目に入ってくる」
と話してくれた。
感覚が過敏になるということは、
周囲から入ってくる情報がとてつもない量になるということだ。
だから一部の発達障害の当事者は、
その情報の波にどう対処していいかわからなくなったり、激しく疲労したりする。
(引用ここまで)
*********************
これ、凄くよく分かる!
同ページで紹介されていた動画については、私は全く当てはまらなかったのだけど、
とにかく、視覚情報を拾いすぎて疲れるという状態は、正に私!
実は、旦那と結婚して3年くらいまでは、これが普通だと思っていた。
ところが、ある日の旦那との会話でおかしいかもしれないと思い始めることに。
旦那:「◯◯って、何処かで売っているかな?」
私:「百均で売ってたよ。あと、スーパー△△にも売ってた。」
旦那:「よく覚えているよね…。」
私:「買い物に行ったら、売ってるものみんな見ちゃわない?」
旦那:「いや全く。目的の物以外見ないし、見ても覚えてない。」
私:「…?(旦那、記憶力弱いのかしら?)」
また、別の日の会話で、
私:「スーパーに行くと、情報で酔う…。頭が疲れるー!」
旦那:「そんなに見なきゃいいのに。」
私:「目的の物の棚をパット見で全部見ちゃうんだよー!普通見るでしょ?見ない?」
旦那:「目的の物以外見ない。」
私:「…?(旦那、世の中に興味が無いのかしら?)」
また、別の日の会話で、
私:「前に行ったあそこにまた行きたーい。」
旦那:「どこ?」
私:「名前忘れた。竹林があって、風がざぁって気持ちよくて、
お茶屋さんの近くにお手洗いがあって、お団子売ってたり、かき氷売ってたり…。」
旦那:「…?」
これは、記憶の中の一枚の写真を見て説明している状態。
言っても伝わらないだろうと思って、言わなかったけれど、
お茶屋の看板が紫色だったとか、
外に椅子が出ていて、ウチの子くらいの子供とおばあちゃんが座っていたとか、
自分たちの隣のベンチにおじいちゃんが座っていてという話は省いた。
ついでに言うと、自分達が座っていたベンチの材質も覚えている。
見たもの以外にも、
頭の中で、『なんで、これはこうなのかな?何をしているのかな?アレいいな。』
等と、何か引っかかった対象については大体覚えている。
ここ数年は、加齢のお陰か、記憶する量が減ってきていて、随分楽になってきたけど。
と、どうやら私は、視覚から色々と情報を受取り過ぎていて、
しかも無駄な記憶をどんどんインプットしているらしい。
そのくせ、数字の羅列とか、意味のない記号の並びは全く覚えられない。
※念のために言うと、瞬間記憶なんて便利な物は持っていない。
街を歩く人の装飾品、道に咲いている花、広告…。
特に、色のついた物は記憶に鮮明に残る。
一時、余りにも買い物疲れが酷いので、メガネを掛けるのをやめた事がある。
少しぼやける視界で買い物をしたら、凄く楽だった。
以後、情報が多すぎる場所ではメガネを掛けることをやめた。
ただ、慣れないスーパーだと、
目的の物が何処にあるのか見つけにくくて逆に疲れてしまうという結果だったけれど。
外出するならば、電車よりも車の方が楽だし、(電車は人が多いのでおのずと視覚情報も増えてしまう)
初めて行く場所は疲れるし、
友達といくショッピングモールも、毎回同じ場所じゃないと何も買わずに帰ってきてしまう!
そんな面倒くさい『情報おおすぎ状態』だけれど、
気に入った場所の情景を、その場の雰囲気や、風の感じも含めて覚えていられるのは、
凄く良いと思っている。
行きたくてももう行けない場所も、記憶の中だと匂いまで覚えているから、
もう行けいないからと寂しく感じる事もない。
ただ、生活に支障が出るくらいになってしまうと、本当に辛いだろうとは思う。
結婚相手にすらなかなか理解してもらえなかった部分なので、
赤の他人となると本当に理解に苦しむ部分なのかもしれない。
発達障害の方々は、そういった見えない部分で苦しんでいるのだろう。
いい部分を伸ばして、辛い部分を何かしらの対処方で回避できる術をどんどん身につけて行って、
幸せな日常を送って欲しいと心から願う。